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●道警は逮捕・家宅捜索しても道庁爆破事件の直接証拠等有力証拠は得られないだろうと考えて「リン止めネジ」をねつ造しました
(1)一般的に、犯行後間もないうちに犯人を突き止めて逮捕し家宅捜索する場合は、犯行を直接立証できる証拠(直接証拠)が手に入る可能性は高まります。しかし時間が経過してしまえば、直接証拠を得ることは困難になります。有力な間接証拠についても同様です。犯人は犯行を裏付ける証拠は処分していくからです。
(2)道庁爆破事件(混合火薬を使った消火器爆弾)は1976年3月2日午前9時02分です。私の逮捕は5カ月以上経った8月10日でした。道警は私の存在をつかんでいませんでした。同年7月2日に岐阜県内で起った「可児町事件」(K氏は夜中山の中の道をショッピングカートをひいて歩いていて、通りかかったパトカーに職務質問を受けて派出所へ連行されたのですが、ショッピングカートを置いて逃走しました。ショッピングカートには混合火薬の主剤である除草剤や木炭粉末、硫黄粉末、乳鉢・乳棒、爆弾教本「腹腹時計」などがあり、K氏が全国指名手配された事件)が発生し、岐阜県警は7月16日に道警に対して、「Kはアイヌ問題に関心を有している。Kと友人の大森とは同志の関係にあるから、大森はKの立ち回り先である」と通報してきたのです。その前の7月9日に岐阜県警は道警に大森の現住の有無を照会し、道警は調査して答えています。
これによって道警は初めて私の存在を認識したのでした。そして「Kの立ち回り先」として7月20日から私の内偵を開始したのです。私は「可児町事件」を知り、7月8日から姿を隠していました。東京へ出ていました。一旦7月20日にアパートへ戻り22日午前中に会社へ行って支店長に会った後また22日の午後に札幌を出て東京へ向かいました。7月20日21日とアパートで寝たのですが、道警は私の在宅は知りませんでしたので、このときは昼間だけの、しかもゆるい監視だったことになります。
私はその後8月6日午後4時頃にアパートへ戻ります。道警はこのときには10分後位に窓が開いているのを確認しているので、相当しっかりした監視体制がしかれていたことがわかります。つまり道警は内偵によって、私が7月下旬から在宅していなく姿を隠していることを知り、「大森は単なるKの立ち回り先ではなく、大森自身が爆弾闘争を志向している人物だと考えられる。そうでなければ姿を隠したりしない。大森と道内で発生した爆弾事件との関連性が出てきた」と判断したわけです。
(3)道警はアパートの向かいの事務所の2Fを夜間監視するために使わせてもらうことにしています(8月6日私の帰宅後)。私は暗くなってから物を車に積み込みました。2本の消火器を入れたナップザックと大きな茶箱1個(硫黄が入っている)です。夜8時過ぎ車を出発させました。道警はすぐ車で尾行しましたが、1本道になり気付かれるおそれがあると思ったとき、自ら尾行をやめたのでした。だから私は尾行はないと思い込んでしまいました。幌見峠へ向かい谷へ向かってそれらを捨てました。道警は私がどこに捨てたかは分っていません。
翌8月7日は私は朝からダンボール箱3個と茶箱1個(木炭が入っている)、タイガージャー1個(硫黄が入っている)、ナップザック(木炭末の入ったタッパーが入っている)を車に積み、午前8時30分頃に出発し、すぐ近くの繁華街の北24条の交差点近くのゴミステーションにダンボール箱3個を捨てました。車で尾行してきた道警は直後に押収していますが、私は車も多く尾行はないと思い込んでいました。私はそのまま昨夜とは反対側から幌見峠へ向かいました。道警は私が峠へ登っていく道へ入ったところで尾行をやめたので、私はつけてくる車はないと判断して谷側へ残りのものを捨てました。
(4)ゴミステーションから押収・領置したダンボール箱3個の内容物は、7日午後に道警幹部によって検分されました。木炭末で黒く汚れたビニールシート、カーテン地、軍手、網かごがあり、また黒く汚れた計量カップ、スプーン、ヘラがあり、またテスターやペンチ、ドライバー、接着剤などがありました。混合火薬を作る器具や時限装置を作る工具です。また反日思想を示している雑誌の切り抜きや本、火薬や爆薬 についてまとめたレポート用紙がありました。本にはコメ印記号が多数手書きされていましたが、道庁爆破の声明文には3ヶ所にコメ印記号が手書きされていたので、共通性として「有力な証拠」と見られました。道警幹部は協議して8月7日に、私に対して「北海道庁爆破の容疑あり」としたのでした。
道警は8月8日の朝から、幌見峠一帯の大捜索を開始しました。7日私が幌見峠へ登っていく道へ入ったのを見ているからです。8日午後2時過ぎに私が6日夜に投棄した2本の消火器と硫黄の入った茶箱(硫黄は周りにこぼれ散っていた)を峠で発見し領置しています。7日に投棄した物は全て8月12日に発見・領置しています。
また道警は7日にゴミステーションで領置したビニールシート、カーテン地、軍手、網かごなど37点の化学鑑定も実施しました。刑事部犯罪科学研究所の山平真氏を除く本実氏らが鑑定を行い、9日に除草剤の付着反応はないとの結果が出たのでした。幹部はこの鑑定結果は期待はずれだったはずです。
(5)私は8日の朝、歩いて尾行してきた道警の一人を問い詰めています。9日昼私は東区役所で転出手続きをしました。道警は直後に確認しています。
幹部の石原警視(実質的な捜査指揮官)はどう考えたでしょうか。道庁爆破の消火器は10型という大型消火器でしたが、8日に幌見峠で発見・領置した私が捨てた消火器2本も10型でしたから、「重要な証拠が手に入った。大森の道庁爆破容疑は更に深まった」と考えたでしょう。しかし7日と8日に領置した証拠は、私が反日爆弾闘争を志向し、実際に混合火薬作りをしているところまでは証明できる証拠ですが、当然のことですが道庁爆破の実行犯を証明できるような証拠ではありません。それらの証拠を私が道庁事件の前から持っていたとしてもです。道庁事件とは無関係に別の爆弾闘争をめざしていたとの見かたが成立つからです。
石原氏は次のように考えたとみて間違いないでしょう。「大森は8月6日にアパートに戻るとすぐ物を投棄して証拠隠滅を図っていった。尾行して投棄物を押収・領置したが、除草剤はなかった。Kが持っていた混合火薬を作るのに使用する乳鉢と乳棒もなかった。秤や電気ドリル(道庁事件の消火器と時計のリンには電気ドリルで孔が開けられていた)やテープライター(道庁事件の声明文はテープライターで打刻されていた)もなかった。大森は道警が内偵を始める前にも重要な証拠を捨てているはずだ。幌見峠の捜索はさらに徹底的にやらなくてはならない。道外へ逃げようとしている大森を爆発物取締罰則第3条違反容疑で別件逮捕して家宅捜索しても、居室内の除草剤の反応は別として、もはやこれらの重要証拠が居室から見つかることはありえない。大森を道庁爆破容疑で再逮捕(9月1日に再逮捕される)するためには、爆取3条容疑での逮捕日(8月10日逮捕された)当日の家宅捜索で、リン止めネジが発見されたこと(ねつ造)にするしかない」と。
(6)道警は道庁爆破事件の捜査で、時限装置のシチズンのラベルウォッチ・ツーリスト024のネジの使い方には特徴があって、リン止めネジ2本(マイナスネジ)の代わりにケース止めネジ2本(プラス・マイナスネジ)が使われており、犯人の元にリン止めネジ2本が残されたことを、4月までに把握していました。シチズンのトラベルウォッチには59種類があり、リン止めネジはすべて同一規格ではあるのですが、犯人の元に残されたリン止めネジと同じリン止めネジが、(8月10日)逮捕日に大森の居室の処分し忘れそうな場所から「発見された」ということになれば、それは道庁爆破容疑での再逮捕に向けて「極めて重要な証拠」になります。
(7)石原警視は多分8月9日に市内の時計店でシチズンのトラベルウォッチを買い、リン止めネジをはずして(だからドライバー溝にはキズがついていないネジ)、それを里警部に渡して適切な場所(布団袋の中ということになった)から「発見された」ということにさせたのでした。
(8)石原氏は、2回にわたって居室の隅々までガーゼや脱脂綿で拭きとって化学鑑定させたのですが、除草剤の付着反応はありませんでした。8月20日までに判明。それでこれまで一切鑑定にタッチしてこなかった山平氏に命じて、8月7日にゴミステーションで領置した37点のうちのビニールシートとカーテン地の2点から除草剤の付着反応が検出されたという鑑定書(8月28日付け)をねつ造させたのでした(しかし山平氏は抵抗しました。これについては第74回コラムを参照してください)。
(9)石原氏は佐々木警視に命じて、目撃証人藤井昭作氏を誘導して「3月2日の朝道庁前の道で見たA男B男二人連れ(道庁へ入っていく時はバックを持っていたが、2分後に出てきたときは手ぶらであった)のうちのA男は大森にそっくりである。同一人物であると思う」というねつ造調書(8月18日付け)を作成させました。
(10)石原氏は8月14日に民間人の書道家金丸氏に筆跡鑑定依頼し、そして「声明文のコメ印と大森の本のコメ印は同一筆跡である」という鑑定書(8月23日付け)を作らせていきました(公判で金丸氏は私たちに追及されると、「筆跡は異なります」と認めざるを得ませんでした)。
(11)道警は発見リン止めネジや山平鑑定書や藤井調書や金丸鑑定書などを持って、9月1日に私を道庁爆破容疑で再逮捕していったのでした。道警はこれらのねつ造証拠によって初めて逮捕することができたのです。なお(5)に掲げた物はどこからも発見されませんでした。私はそれらを持っておらず捨てていないのですから当たり前です。
2015年12月3日記
大森勝久
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