北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)

 第74回 山平真氏は間接的に「山平鑑定不存在」(つまり
捏造)をアピールしていたのです
山平真氏は間接的に「山平鑑定不存在」(つまり捏造)をアピールしていたのです
●山平鑑定とは
 山平鑑定(8月28日付け)とは、私が8月7日にゴミステーションに捨てた37点の物を化学鑑定した結果、ビニールシートとカーテンの2点から塩素酸ナトリウム(除草剤として売られていた)の付着反応が検出され、これによって大森が除草剤を所持していたことが明らかである、と認定されることになった鑑定です。塩素酸ナトリウムは混合火薬(道庁爆破の火薬)の主原料です。

 道警刑事部犯罪科学研究所吏員の山平真氏は、「8月8日から8月20日まで37点の検査をしました。8日は本実と一緒に分担して行いましたが、9日からは自分ひとりで検査をしました」と証言していました(1審)。

 実は、山平氏はこの鑑定は一切行っていないのです。本実氏らが37点の検査をしたのでした。しかし除草剤の付着反応はなかったのです。私の元居室も隅々まで付着物を採取して2度にわたって鑑定をしましたが、除草剤付着反応はなかったのです。8月20日までに判明。捜査の実質的指揮官である石原警視は、本実氏らに除草剤付着反応があったという偽の鑑定書を作ることを求めたのですが、彼らは拒みました。そのため石原氏は、本事件の鑑定に一切タッチしていなかった山平氏(3月2日の事件当時山平氏は北海道大学に聴講生として通って研究をしていました。76年1月から3月です。私の逮捕の8月も北大の研究論文にとり組んでいました)に白羽の矢を立てたのです。8月21日頃と思われます。

 山平氏は捏造鑑定書を作ることに抵抗しています。彼は表面的には「鑑定をやった」と証言してますが、具体的な証言等において、「自分は山平鑑定を実施していません。これは捏造です」ということを弁護側と裁判官にアピールしていたのです。しかし確定審(1審2審上告審。1977年2月〜1994年9月)の段階では、私たちはそのことを認識できませんでした。私は第1次再審請求審(2002年7月〜2011年12月)において、そのことを認識して、私の再審請求書をその立場から作成して裁判所へ提出しました。

●山平真氏は「山平鑑定不存在」をアピールしていました
 私は第73回コラムで、証拠の分析・評価は科学によって行われなくてはならないと述べました。この立場で山平氏の証言等を分析して評価してみましょう。

 (1)山平氏は「8月8日の朝に鑑定資料37点が科研(刑事部犯罪科学研究所)に届きました」と証言していました(1審)。これは虚偽の証言です。理由は以下です。

 37点中32点は「指紋検出」の資料にもなっていたのです。そして32点の指紋検出作業は8月9日に実施されました。ですからこの32点は8日に科研に届くことはありえないのです。捜査指揮官の石原氏は、証人出廷して捜査方針について、「まず指紋を検出する。それが終わり次第、化学鑑定に回す」と決定し指示したことを証言しました。化学鑑定を先にやってしまうと指紋は消えてしまいます。しかし指紋検出をした後でも、化学鑑定はできるためです。残りの5点は、指紋検出資料には指定されませんでした。この5点だけが化学鑑定のために8日に科研へ届けられたのです。32点が科研に届いたのは指紋検出を終えた9日でした。なお、指紋捜査は、道警は「共犯の存在」を考えますから共犯捜査上、不可欠の重要な捜査なのです。

 山平氏が上手に捏造鑑定書を作るとしたならば、(1)のような嘘がバレてしまうような証言はしません。「8日に5点が届き、9日に残り32点が届きました」と事実どうりに述べればよいのです。山平氏はあえて(1)の虚偽証言をすることで、「私は山平鑑定をやっていません」と間接的にアピールしていたわけです。山平氏は「8日は最も汚れがひどいビニールシートとカーテンから始めました。本実が軍手を検査しました」と証言していたのです(1審)。しかしビニールシートとカーテンは指紋検出資料の32点に含まれていますから、8日には届くことはありえません。9日に届いたのです。

 (2)山平氏は「8日に届いた資料の1つに大きな黒色ビニール袋(ゴミ袋)がありました。その中に微量(0.15グラム)の木炭末があるのを発見したので、私が白い薬包紙に包んでおきました。それが1点とカウントされて資料は37点ということになりました。最初は36点として届いたのです」と1審で証言しました。これも虚偽を意図的に述べたものです。そうすることで「私は鑑定をやっていません。この鑑定は虚偽です」と間接的にアピールしていたのです。

 この微量の木炭末(0.15グラム)は、既にちゃんと8月7日付け「領置調書」に独立した項目として記載されているものなのです。それが化学鑑定資料として届けられるときは、紛失しないように白い薬包紙に包んで、更にそれをもう少し大きめのビニール袋に入れて「木炭末」と書いて届けられます。黒色ビニール袋(ゴミ袋)の中に裸のまま入れて届けることなどありえません。紛失してしまいます。それに、黒色ビニール袋は指紋検出に回されましたから8日には届きません。

 8日に届いた鑑定資料の5点とは、この木炭末(0.15グラム)と軍手とザル3個です。この検査をしたのは本実氏(科研の所長)です。8日は日曜日です。山平氏は日直のためにたまたま出てきていたにすぎません。しかし8日には上の5点しか届かなかったこと、また木炭末のことを知ったのです。これを利用して前記のように虚偽の証言をして、山平鑑定の信用性をゼロにしようとしたのでした。

 (3)山平鑑定書は8月28日付けです。8月8日から20日に実施となっています。「鑑定結果」欄には「ビニールシート、カーテンから塩素酸イオンを検出」としか書かれていないものです。これでは、塩素酸ナトリウム(除草剤)が付着していたことにはなりません。塩素酸カリウムという物質(これも混合火薬の主剤)もあるからです。「ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性」が加わって、初めて塩素酸イオンが付着していたことになります。これによって、山平氏が捏造に加担することに抵抗していたことがよくわかります。

 「鑑定経過」欄には「ナトリウムイオンの炎色反応が陽性」と記されていますが、カリウムイオンについては何も記載がされていません。普通に解釈すれば、カリウムイオンの検査はしていないということです。そして「塩素イオンは擬陽性」とありますから、ナトリウムイオンの相手の陰イオンは塩素イオンであること、つまり微量の塩化ナトリウム(汗)がビニールシートやカーテンに付着したとも考えられる記載にしてあります。塩素イオンよりもナトリウムイオンの方が検出されやすいからです。

 問題は、塩素酸イオンの相手の陽イオンのことです。もしカリウムイオンの炎色反応検査をしていれば陽性となって、塩素酸カリウム(マッチの頭薬)が付着していたことになるとも考えられる記載にしてある鑑定書でした。

 私は除草剤はまだ入手できていなかったために、マッチの頭薬をつぶすことをしていました。8日に軍手の検査をした本実氏は、軍手に塩素酸カリウムが付着していることを溶液内検査で検出していました。山平氏はそのことも知っていました。だから軍手に付着していたものが、ビニールシートとカーテンにも移ったのである、ということにしようとしたのです。

 そのために山平氏は、「8日資料37点は全て裸のままで一括して大きなダンボール箱に入れられて届きました」と嘘の証言をしたのです。もちろんこのように言うことで、鑑定全体の信用性もゼロにしようと考えたのです。資料はそれぞれちゃんと名前を書いたビニール袋に入れて区別されて届けられるのです。常識です。

●山平氏の「電話中間回答報告書」(8月8日2時30分)について
 1審で(3)で述べた鑑定書の記載内容を弁護側が追及したため、石原警視は2審において山平氏に、「電話中間回答報告書」を捏造することを命じました。こうして「電話中間回答報告書」が捏造されたのです。資料名と検査項目と検査結果を記載した「別紙」のビニールシートとカーテンの欄には、「ナトリウムイオン陽性、カリウムイオン陰性、塩素イオン擬陽性、塩素酸イオン陽性」と記載されました。8月8日午後2時30分に電話で中間回答をしたということにしてあります。

 (4)山平氏はこの「電話中間回答報告書」の信用性はゼロであることをアピールするために、「別紙」の一番上の欄に「ポリバケツ」と記入し、その検査結果も記入したのです。このポリバケツは私が使用していたものですが、8月19日に大家のN氏が任意提出して、同日に領置された証拠物なのです。8日に検査できるはずはありません。

 (5)山平氏は「別紙」に20個の資料名を書き込みました。ポリバケツ、ヘラ2点、スプーン6点、ビニールシート、カーテン、軍手、コップ大4個、コップ小3個、ザル1個、青ビニールザル2個です。さらに山平氏は「1つ1つ別々に水溶液を作り濃縮して各種の検査をしました」と嘘の証言をしました。コップでいえば7つの水溶液を作ったことになります。つまり20の水溶液をつくり濃縮して、それぞれにおいて塩素イオン、塩素酸イオン、過塩素酸イオン、硝酸イオン、亜硝酸イオン、アンモニアイオン、ナトリウムイオン、カリウムイオンの検査をしたと証言したのでした。

 20点のそれぞれの資料の付着物の採取と溶液づくり(20の水溶液)、濃縮作業と各種検査を一人でやるとすると、中間報告をしたとされる2時30分までに終えることは到底不可能です。山平氏はこのような電話中間回答報告書を作り、また証言をすることで、「山平鑑定は不存在で捏造です」と間接的にアピールしていたのです。

 (6)山平氏は1審の証言では、「8日は最も汚れがひどい(付着が多い)ビニールシートとカーテンを私がやり、軍手は本実がやりました」と証言していました。また「8日の夕方までにビニールシートとカーテンの塩素酸イオンの検出までをやりました」と述べて、この2点も他の検査項目はまだやっていない旨の証言をしていました。もちろん、その他の資料は8日は検査していないということです。20日までかかってやったということです。

 ところが2審になると、山平氏は「電話中間回答報告書」のように8日の2時30分までに大部分の検査を終えたと変えたのです。さらには「8日は日曜日でありました。私は1審の時は平日だと考えてしまい、本実と一緒にやったと証言しましたが、それは私の勘違いでした。8日は日曜日なので本実は休みでした。だから私一人でやりました。軍手も私がやりました」と証言を変えたのでした。本実氏は8日にちゃんと出勤して5点の検査をしています。さらに別の鑑定嘱託にもとづく検査もやっています。

 山平氏はこのように証言を大きく変えることで、電話中間回答報告書は全く信用できないこと、捏造物であること、山平鑑定は不存在であることをアピールしようとしたのです。

●第1次再審請求審における山平氏の新証言―真実を証言しました
 山平氏は前述のように、間接的に「山平鑑定」は不存在で捏造物であることをアピールしてきたのですが、裁判所はそれを受け入れることは「不都合」なので、科学を否定して、「山平鑑定書、山平電話中間回答報告書そして山平証言によって、ビニールシートとカーテンに除草剤が付着していたことは明らかであり、大森は除草剤を所持していた」と判示したのでした。そのため、第1次再審請求審に証人として出廷した山平氏は、間接的にですがより一層明白に「山平鑑定不存在」(捏造)をアピールするために証言したのでした。

 (7)山平氏は1審の時、「8日私はビニールシートの付着物を採取するために裏面の一部を切断しました」と証言していました。8日にはビニールシートは届きませんから、もちろん虚偽です。山平氏は今度は次のように真実を明らかにしたのです。「私は8月9日、科研に持ち込まれた鑑定資料を本実ら一同が手分けして検査の準備をするのを見ています。本実たちがビニールシートの一部を切断するのも見ています」と。そして「私は9日以降一切この鑑定にはタッチしていません」とも証言したのでした。

 これは、山平氏がこの鑑定には一切関与していない事実を吐露した証言です。そして5点は8月8日に本実氏がやり、残りの32点も9日に本実氏たちが検査したという真実を証言したものです。もしそこで除草剤の付着反応が検出されていれば、本実氏らの名義で鑑定書は作成されますから、除草剤の付着反応はなかったということです。一切関与していない山平氏が作成した山平鑑定書等は、当然捏造物であるということです。

 私がここに書いたことは科学です。真実です。私は「再審請求書」として裁判所へ提出しました。しかし、裁判所は科学を否定して、この山平氏の新証言を排除してしまいました。

2015年9月17日記
大森勝久
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