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●ある女性のこと
愛するふるさとがあることは幸せであり、生きる力にもなります。私は大学時代を岐阜市で暮しましたから、岐阜の街はふるさとです。寮時代の友達がいて、別の学校でしたが彼女がいて、素晴らしい自然があったからです。彼女の方から別れを言われたのですが(私が誤って、左翼運動にのめり込んでいったため)、私は彼女のことを嫌いになったことは一度もありませんでした。
逮捕されたとき、私は彼女に迷惑がかからなければいいがととても心配したのですが、警察も彼女の存在を調べられないことが分って、ほっとしたものでした。私の大学時代のかつての友人達も彼女のことはほとんど知らなかったし、少しばかり知っていた人も警察に訊かれなかったか、訊かれても黙っていてくれたためでしょう。
彼女とは私が2年生の時に、大学の軽音楽部が恒例の「12.24クリスマスイブ・ダンスパーティー」を街の中心部に近い商工会議所の2階大ホールで開催した時に、偶然知り合ったのでした(1969年12月)。他大学等からも多くの人が参加していたのです。「柳ヶ瀬ブルース」が流行していた頃で、この曲でも彼女と踊ったものです。今もその時のことを鮮明に思い出すことができます。終ってから柳ヶ瀬の洋酒喫茶に入ってから、家まで送っていきました。
私は一目惚れして、「明日岐阜公園で会いませんか」と言って別れたのですが、翌日来てくれた彼女は、「昨夜だけの思い出にしましょう」とだけ言って、帰っていきました。大ショックでした。私はその後も彼女のことを想って過していたのですが、もう忘れようと諦めかけた1970年4月頃に、彼女からアパートに電話がかかってきたのです。住所や電話番号などは洋酒喫茶でメモして渡してありました。美江寺公園で再会することになり、お付合いが始まったのでした。長良川で泳いだり花火を見物したりと、幸せな日々でした。
しかし4年生になり、私が左翼運動に段々とのめり込むようになっていったために、彼女を悩ませることになってしまい、ちょうどクリスマスイブ頃に同じ美江寺公園で、彼女から別れを告げられることになったのでした(1971年12月)。彼女の早足の後姿が街角に消えていくのを、私は涙を流しながら見つめていました。
ところが、それから2年後の1973年のクリスマスイブ頃ですが、彼女から多治見の実家に突然電話がかかってきて、「会いたいのですが」と言われたのです。私はすぐ岐阜へ飛んで行きました。数日後にもう一度会ったのですが、矢張り「ついて行けない」ということでしょう、彼女は無言のまま身を翻して早足で去っていきました。私はその後姿に向かって、「気をつけて!」「元気で!」と言うだけでした。
以前から予定していたことですが、私は半年後の1974年6月末に北海道へ移り住むことになります。北海道に行く前に一目彼女の姿を見ておきたいと思って、私は夜、車で彼女の家の前まで行きました。出発の2,3日前です。幸運にも20メートル位の距離から車の中から、テレビを観ている彼女の姿を眺めることができました。これが彼女を見た最後でした。幸せなご家庭をつくってくれていることを祈っています。
●毎日バス路線沿いの風景を思い浮かべて楽しんでいます
私は毎日しかも何回も、岐阜の路線バス沿いの風景を思い浮かべて楽しんでいます。ワンマンバスでしたが、アナウンスをまねて「バス停名」を順に口ずさみながら風景を思い浮かべています。第32回コラムでも書きました。まずアパートの部屋から出発して、「長良天神」でバスに乗り、「次は長良北町です」「次は長良が丘です」「次は鵜飼屋です」「次は長良橋です」「次は岐阜公園前です」と言いながら、「岐阜駅前」まで18のバス停の各区間の風景を思い浮かべていくのです。そして「岐阜駅前」から逆コースで「長良天神」に戻り、「正木アパート」の自室に入るのです。途中で、彼女の家があった地区にも寄り道します。
こうして道を辿っていきますと、やはりアパートに近づく帰りのコースの方がより嬉しいことが分かります。特にアパートがあるエリアを見渡せるようになった頃から、懐かしさの感情が一段と強くなります。人にとって家(アパート)はとても重要なのです。
「岐阜公園前」からのゆるやかな坂を登り切った所に、「長良橋」のバス停があります。ここに来ますと、「この先に私のアパートがある!」という感覚になるのです。というのは、長良橋は堤防よりもかなり高い所に架っているため、橋を渡っていきますと、前方(北側)にアパートのある長良天神地区も視野に入るようになるからです。アパートのすぐ横にある長良天神神社の森が見えてきます。もちろん、アパートから毎日見ていた百ヶ峰(そのふもとに2年の6月まで入っていた寮がありました)もはっきりと望めます。
長良橋は300メートル位もある長い橋です。「長良橋」から「鵜飼屋」(橋を渡り切った所)の間に、一気に視界が広がります。とても好きな景色です。前記のことに加えて、右手(東側)には、係留されている鵜飼観光の赤い屋根の屋形船が何艘も見られます。広い河原と彼女とも泳いだ流域が広がります。緑深い金華山の全容が見えてきます。両岸沿いには美しい観光ホテルが連なっている姿が目に入ってきます。左手(西側)の下流域はより一層広々としており、やや左に曲がって流れていき、遠くに金華橋を望めます。川の北側には県営グランドの森が見えます。
長良橋を渡り切りますと、「鵜飼屋」から「長良北町」までゆるやかな下り坂になります。直線の道なので、600メートル位先にある長良北町を見通すことができるのです。私はこの光景もとても好きです。といいますのは、長良北町にはいつも買い物をしたスーパーやよく利用した食堂や喫茶店があり(当然彼女とも一緒に入った)、アパートとともに私の生活空間の中心であった懐かしい地域だからです。
長良北町のひとつ向こうが「長良天神」のバス停です。私はここで下車をすると、「次は正木アパートです」と口ずさみ部屋までの道程を思い浮かべていきます。バス停から60メートル位のところにある正木アパートは見えています。道を渡って、用水路とアパートの間にある1メートル程の細い道を通って、アパートの通路に入ります。私は自転車をこの通路に置いていました。下駄箱があって(置かれている彼女の靴も浮かんできます)、急な階段を登ると共同台所と共同トイレがあって、私の4畳半の部屋となります。3つ目です。私はドアを開けて入り、南向きの窓から見える金華山を眺めるのです。
私はこういうことを毎日何回も繰り返して楽しんでいます。私はふるさとの岐阜を心から愛しています。
私は、懐かしい人々が何かの機会に「本コラム」を見てくれることがあるかもしれないと思って、時々こうした裁判以外のことを書いています。それは楽しい作業ですし、文を残すことが、私の生きていく力にもなります。
2014年2月1日記
大森勝久
●追記
先程(2014年1月8日)、職員が来まして、「昨日、外部交通権のない人から手紙が届きましたが、交通権がないため交付はできません。ただ、同封されていた切手は交付します」と告知されました。「星座シリーズ」の80円切手10枚を交付されました。お名前もご住所も分かりませんが、ありがとうございます。本ホームページのトップページに、連絡先のメールアドレスが載せてあります。そちらへご連絡していただければ、間接的に私に届くことになります。
大森勝久
↑ 長良橋付近より長良川と金華山を望む 長良川 ↑ 鵜飼の屋形船
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