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北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)


第48回 私のいくつかのアパート生活
(2013年9月7日記)


私のいくつかのアパート生活
●懐かしい人や未知の人とのつながりを求めて、非裁判のコラムを書いています
 少し前にも、裁判以外のことを書いた「コラム」を読み返してみました。私は時々これをやっています。第9回、10回、11回、32回、35回、36回、37回、38回、39回、44回、45回、46回です。当時のことが想い起されて楽しいのです。

 私と面識があった人(言葉を交わしたことはなくても)が、いつか読んでくださることもあるかもしれないと考えますと、幸せな気持ちになります。また私は、私の思想(保守主義)に関心を持たれた未知の人も、見てくださっているかもしれない、と考えることにしています。つまり「コラム」は、懐かしい人や未知の人とのつながりが出来るかも知れないと考えて、私自身のために書いています。
 
 去年は9月に入ってからも、夏日が20日もありました。うち真夏日が6日です。しかし今年は、7月と8月中旬までは記録的な暑さでしたが、8月28日から夏日がなくなってしまい、やっと9月5日に25度台の夏日になりました。がまた、昨日も今日も涼しい日になっています。去りゆく夏の感があります。

 月に2本のコラムを掲載したことはないのですが、夏が去ってしまう前に、夏に関連したことを書いておきたいと思い直して、ペンを執りました。今日9月7日は私の64回目の誕生日ですので、書くのに良い日です。


●夏にアパートを移っていました
 私が想い出すことは、誤った左翼運動の道に入っていってしまう前の時期の多治見市や岐阜市の生活と、運動を始めた以降では、運動とは無関係の私的な生活に限られています。今回は、私のアパート生活について、ホームページに文を残しておきたいと思い書きます。

 自分自身の部屋(アパート)を持つことは、人にとっての基本的な欲求でしょう。私は1969年の夏(6月末頃、大学2年)に学生寮=望峰寮の4人部屋を出まして、正木アパートへ移りました。嬉しかったですね。2階の南向きの4.5畳の部屋で、南南東方向に金華山・岐阜城を望むことができました。2階には6部屋ありました。

 アパートの北隣り(1.5m)には、水田用の小川が東から西へ流れていて、魚の姿を見ることもできました。アパートの西側は、田畑がずーと先まで広がっていました。アパートの80m位南には長良天神神社がありまして、私はこの境内を通って通学してました。

 共同の台所がありましたので、私は自炊生活を始めました。朝と夕食を作り、昼食は学生食堂他でとりました。簡単にできる、決まったものしか作りませんでしたが、食事作りは好きでしたね。女の子の手に触れたのは、中学3年と高校1年と大学1、2年のフォークダンス(オクラホマ・ミキサー)の時だけであった私ですが、3年の春(1970年4月)に彼女ができました。彼女がアパートに来てくれたのは夏でした。長良川でも一緒に泳ぎました。

 1972年3月に卒業したのですが、私は左翼思想にかぶれてしまっていましたので、教員の辞令を辞退して3月からすぐに岐阜市で日雇いの土木作業員を始めていったのでした。昼の弁当も作って出掛けました。正木アパートは、その年の6月末までちょうど3年間住みました。一番想い出の深いアパートです。

 次に入居したアパートは、同県・美濃加茂市の日比野荘で、1972年の夏(6月末)です。 大家さんが農家でして、納屋を2つのアパートにしたものでした。6畳1間に4畳程の土間が付いていました。トイレは農家らしく外にありまして、大家さんと共用でした。流しは付いていたので、プロパンガスボンベを買ってきて自炊生活をしました。やはり日雇いの土木作業員です。昼の弁当はおかずを作るのが面倒なので、サバの水煮缶とか缶詰を持っていったものです。

 アパートの北側は人家はなく、緑の田んぼがずーと広がっていました。田んぼのあぜ道にたたずむのはいい気持ちでしたね。アパート前(南側)の道は土の道で、すぐ南横がまた田んぼでした。夜道を歩きますと、カエルがとても賑やかに鳴いていました。アパート前の大家さんの庭の木では、昼間はアブラゼミやクマゼミが毎日合唱していました。

 大家さんの奥さんや娘さん(私より2つ位下と思います)から、畑で獲れたなすやきゅうりをよく頂きました。私はそれまではなすは余り好きでなかったのですが、この時からなすの油炒めが大好きになりました。住み心地はとても良かったのですが、私の都合でわずか2ヶ月で出ることになりました。

 その後の私は、名古屋や大阪や東京や札幌などの寄せ場や飯場で暮らしたり、住み込みで土木建築仕事をしました。実家にも半年位戻って運転免許をとり、多治見日通で運転助手の仕事を3ヶ月程したこともありました。

 次に私がアパートを借りたのは、1974年の夏(6月末)です。北海道の苫小牧市の舟橋アパートでした。2階には4部屋ありまして、私は6畳と3畳の2間の部屋を借りました。トイレは共同でしたが、流しは中に付いていましたので、プロパンガスボンベを買ってきて、自炊生活をしました。苫小牧での生活は35回と39回でも書きましたが、八百屋さんの車による配達の仕事をしていましたので、毎日のように海が見える所を車で走っていたものです。

 アパートの20m西には草が茂った広い空き地があり、その横が私の車の駐車場所でした。空き地の斜め前が木々の多い公園でした。私は無意識のうちに、自然(緑)がある場所にあるアパートを借りていました。多治見の実家は、すぐ裏が神社の森でしたから、緑を恋しく思っていたのでした。ちょっとずれますが、後で知ったのですが、高校3年の時に一方的に想いを寄せていた人の家も、緑があふれた所にあるのを知ったとき、いい環境育ったんだなーと嬉しい気持ちになりましたね。舟橋アパートには1年間住みました。良い大家さんで、家賃を払いに行った時に、何度かビールなどを頂いたこともありました。

 次のアパートは翌年1975年の夏(6月末)の札幌市の小幡荘でした。これは46回コラムで書きました。

 その次に入居した札幌市内のアパートは、同年10月初めでしたので、ここだけは夏ではありませんでした。西隣りが木々も多い公園になっている、Nさん宅の2階の部屋(2間、トイレ、台所付き)を間借りしたのでした。玄関は共用でした。翌年の8月10日まで住みました。私は9月の下旬から、朝9時から深夜1時までの駐車場の管理人の仕事をするようになっていました。ススキノです。隔日出勤でしたので、休みの日は自炊しました。出勤日は朝だけ作り、昼と夕食は配達される給食センターの弁当でした。夜食用に、カップメンやパンや市販の弁当を買っていきました。

 Nさんご夫妻は、私の父母と同じ年令で、もう家を出ている一人息子さんも私と同じ年ということで、大変良くして下さり、私はおかずをひんぱんに頂いていました。翌年、私がアパートを出ることになったときには、8月8日夜にお別れ会をして下さいました。ちょうど、ご主人が車検で車がないときだったので、私も8月9日と10日の朝、車でご主人を会社まで送ってあげました。私は10日の昼過ぎに、奥さんに見送られてアパートを去りますが、3時21分に苫小牧のフェリーターミナルで逮捕ということになったのでした。大変良くしていただいたのに、大迷惑をおかけしてしまったことを、誠に申し訳なく思います。今でも時々、お2人の顔や声を思い出しています。

2013年9月7日記
大森勝久

【お知らせ】
 大森勝久のコラム欄は毎月1日に更新いたしております。しかし今回は特別に、かつて夏におこなった転居生活の数々について、夏が終ってしまう前に書いておきたいという大森君の希望で、月の中途ですがアップさせていただきました。
 なお、来る10月1日には予定通り裁判に関するコラムをアップ致します。
次の第49回は、「ネジ発見」を真実らしく見せるための「演技」としての「発見後捜査」というタイトルでアップを予定しております。
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北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)